1.ナホトカ航路とシベリア鉄道

 

一人旅にあこがれていた。たった一人でまったく知らない土地へ行って、そこで何ができるのか試してみたかった。引っ込み思案の、寂しがりやの自分を変えたかった。強くなりたい、と思った。そして、たくさんの出会いを経験したかった。

旅を始める前に一つの街で、2ヶ月ぐらい滞在して、慣れてから旅をしよう、と考えた。でも滞在するにはお金がかかる。だからーー働かなきゃ。私の思考は、外国で働くということに行き着いた。でもどこで、どうやって?短期で働かせてくれるとこ、あるかな。どうやって調べたらいいのかな。一生懸命考えた。

ヨーロッパのユースホステルのハンドブックを見て思いついた。そうだ、ユースでアルバイトするのはどうかな。いいかもしれない。早速ウィーンのユースホステルに手紙を書いた。ウィーンにしたのは当時一番安くヨーロッパへ入るのはソ連経由で、終点がウィーンだったから。

手紙の内容はこんな具合;

突然のお手紙、お許しください。5月、6月の2ヶ月間そちらで働かせていただけませんか。働くのは午前中だけで、ペイはなくてもいいから部屋と三食提供してください。できれば午後ドイツ語を習いに行きたいんです。それから私は日本の生け花を教えることができます。いいお返事をお待ちしてます。

こういう結構あつかましい手紙(当時はそう思ってなかったけど)になんとOKの返事がきたのだ。作戦成功!喜び勇んで私は生まれて初めて日本を離れた。

ナホトカ航路

横浜からナホトカまで、3日間の船旅だ。私は一人旅だったので、九州から来た3人組の女の子たちと同室になった。彼女たちは、バイカル湖を訪ねてから、ヨーロッパを一年間、旅行するらしい。そのほかにも、いろいろな夢を胸に旅立った若者たちがいた。ローマからパリまで自転車の旅をする予定の男の子。スウェーデンで写真の勉強をする青年。デンマークで体操を勉強する女の子。パリで雑誌社に勤める男性。2年間無銭旅行をする予定の男の子。私のようにたった4ヶ月で帰る予定の人はいなかった。「どのくらいで帰るの?」と聞くと、「一年ぐらいかな。」「2,3年は帰るつもりはないよ。」「さあ、何年になるかなあ。」という返事ばかり。みんなと話しているうちに私も、もっともっと何かできそうな気がしてきた。船の中は若さであふれていた。一度にいろいろな面白い人たちと知り合えて、とても刺激的な船旅だった。

船はゆっくり北上し、ナホトカに近づくにつれて、流氷が増えてきて、船はガラガラと小さな氷の塊をかきわけて進む。海が一面、氷に覆われているのが不思議な光景だった。

(同室の女の子たちと。一番左が私)

シベリア鉄道

ナホトカからハバロフスクまで鉄道で行く。列車のコンパートメントから見たロシアの大地は荒涼としていた。小さな家が荒野に点在する。四月の空は灰色だ。こんなところに住んでいたら寂しいだろうなあ、と思った。重々しくて淋しいロシア民謡はこういう大地から生まれたんだと実感できた。

モスクワーウィーン

ハバロフスクからモスクワまでは飛行機だ。モスクワで外国人が泊まるように定められているのは、大理石の床、シャンデリアの輝くホールのある豪華なホテルだ。モスクワ市内は自由に観光できた。船で一緒だった人たちと町へ繰り出した。地下鉄は、地下何十メートルの深いところにある。超スピードのエスカレーターに乗って、美術館のような豪華な地下鉄の駅に降り、地下鉄に乗って、街のディスコへ行った。モスクワの四月の夜はとても寒い。ディスコの前は行列ができていて並ばないと中に入れない。並んでいるうちに寒くて、鼻の中まで凍ってしまった。鼻を外から押すととても痛かった。みんなこんなに寒いのに踊るためにそとで待ってるんだ。ロシア人は忍耐強い。

モスクワからまた列車に乗る。ポーランドの首都ワルシャワで3時間ほど停車したので、荷物を列車に残して、3,4人で町を見に行った。駅を出たものの、あたりは何もない。何かあるところまで、とにかく行ってみようと走り出した。走っても走っても、家がポツンポツンとあるだけで何もない。1時間も走ってやっと小さな店を見つけたけど、ポーランドのお金は持ってない。「もう帰ろうよ。列車が出ちゃったら大変だよ。僕たち何も持ってなくてこんなところで置き去りにされたら、どうするんだよ。」だれかがそう言って、急にみんな不安になって、また走りに走って列車まで戻ってきた。私たちのポーランドの印象ー「ポーランドには、何もない。」

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