2.ウィーンの春

ウィーンは美しい街だった。街を一周する市電の窓から見える建物に私は目を見張った。白い彫刻に囲まれた国会議事堂、重厚な石造りのオペラハウス、尖塔のそびえるウィーン大学。

この街でひとつの大切な出会いがあった。

時は心が沸き立つような春。公園の音楽堂からはヨハン シュトラウスの軽やかな曲が流れてきた。

ソ連では個人旅行はできなかったので、ここまでは団体旅行だった。ここからみんなそれぞれの地へ散らばっていく。でもウィーンに着いた次の日はまだ何人か一緒だった。それでみんなで町をぶらぶら散策し、昼食の時間になった。その日は日曜日で、レストランは、みんな閉まっていた。するとグループの女の子数人が黒いジャンパーを着た日本人の青年を連れてきた。

「この人にレストランのこと聞いたら、日曜日に開いてる安いレストラン知ってるって。みんなで行こうよ。」

これが彼と会った最初の日のこと。ウィーンにまだ残るのは私ひとりだったので、私達は、その後何度も会うことになる。彼は(Tと呼ぶことにする)ウィーン大学で歴史を勉強していた。日本では、医学部の学生で、2年間休学中だという。

当時、日本では大学闘争が終焉し、多くの学生たちがその後、ある者は中退し、ある者は就職活動を始め、ある者は行き場を失って日本を離れた。大学闘争に深くかかわった者も、少しだけかかわった者も、遠くから眺めていた者も、自分の生き方に迷い、悩み、戸惑っていた。

私もそうだったけど、Tもそうだったのだろう。何度も会って、たくさんたくさん話している間に私は勝手に「この人だ!」と決めてしまった。Tのほうは「君と会ったのは偶然である。これが必然であるという確信がまだもてない」などと言い、私を悲しませたのだけれど。

たった一人で異国の地で、どれだけのことができるだろうかと、自分を試したくてでてきたのだから、彼に頼らずにやっていこう、と思った。彼も「強くなれ」と、私を突き放した。お互いに世の中に対しても自分に対してもとがっていた。

そんな時代だったのだろう。

さて、仕事のことだ。

仕事場は、ユースホステルか、ウィーン大学の学生寮か、どちらを選んでもいいと言われたので、学生寮の方にした。そのほうが学生たちと友達になれて、ドイツ語の勉強になると思ったから。そして私は面接を受けた。

ボスが聞いた。

「あなたはどんな仕事がしたいのですか?」

私は絶句してしまった。考えたこともなかった。ただ、働けると思って喜んでいただけだったから。どんな仕事があるのかも知らなかった。口ごもっていると、ドイツ語がわからないのかと思って、英語のできる女の人が代わって英語で質問した。

私はすっかりあがってしまって、どう答えたか覚えていない。とにかく、手紙で頼んだ条件どおりで、学生寮のとなりにある事務局の掃除をすることになった。住むところは、やはり寮のとなりの従業員宿舎。ここにはユーゴスラビアからの出稼ぎ労働者がたくさん住んでいた。私の部屋は細長くてベッドと洗面台のある一人部屋。

そして、なんと、週に一回、学生たちに生け花を教えるように頼まれた。手紙にそう書いたからだ。一応、花バサミと剣山と花器をこちらに送ってきてはいた。だけど、できるかなあ。

不安だらけで、私のウィーンでの生活は始まった。

朝6時半に仕事が始まる。みんなが出勤してくる前に机の上や床をきれいにしておかなければならないからだ。一緒に働くのはフラウ ケーテというオーストリア人のおばさん。彼女は長年この仕事をしているらしい。

「いつも、同じことの繰り返しだよ。」

と、ちょっと悲しそうな顔をして、私に掃除道具を渡した。

ほんとに毎日同じことの繰り返しだった。床をモップで、こすって、壁や机の上などを雑巾でふいて、使ったカップを洗う。やりながら、早く時間が過ぎないかなあと思う。学生運動家が、「労働者との連帯」なんて言ってたけど、毎日、毎日、ずっと一生こういう単純労働をしなければならない人たちと、どうやって連帯していけるんだろう、と考えてしまった。

同じ宿舎に住んでいるユーゴスラビア人たちとは、言葉が通じないけれど、(彼らはドイツ語がほとんどできないし、私は彼らの言葉がわからない)なんとなく友達になった。

「ねえ、アイロン持ってる?持ってたら貸して。」

と、私の部屋をたずねてきて、そのまま、なんとなく片言のドイツ語で、おしゃべりしたり、5,6人で、夜、踊りにいったり。

ダンスホールのテーブルのまわりに座って、彼らが話すのを、私は、音楽のように聞いていた。時々隣の女の子が私のほうに微笑みかける。時々男の子が私の手をとってダンスに誘う。話には入れなかったけど、私は彼らと一緒にいて、とてもくつろいでいた。彼らと仲間なんだ、という気がした。彼らの生活のほうがずっと厳しいのに。

若いユーゴスラビア人たちはひとりで国を出てきていた。結婚している人たちは、家族で、やってきていた。いつまで、そういう生活を続けられるのかわからない。とても不安定な生活だった。

ある日、女の子たちが中庭でかたまって泣いていたことがあった。

「どうしたの?」と聞くと、仕事をやめさせられて、部屋も出なければならず、あしたからどうしていいかわからないのだ、と言った。

ひどい、と思った。ヨーロッパでは、出稼ぎ労働者のことが大きな問題だった。オーストリア人のやりたくない仕事を引き受けているのに嫌がられていた。日本でも、それが問題になる日が来るとは、そのころは、考えられなかった。

次の日から、彼女たちは、いなくなった。どこへ行ったのだろう。

働き始めて一ヵ月後くらいに、もうひとり、日本人の男の子がここで働き始めた。彼は学生食堂の下働きをすることになった。日本では、自衛隊の高校を中退して来たのだと言う。ニーチェの好きな、考え深い目をした人だった。彼はいつ日本に帰るのか全然決めていなかった。

(後日談  二年後に彼を訪ねて来たときは、彼はここを辞めさせられて、中華料理店で働いていた。それからどうなったか、もう便りは、途絶えている。)

生け花のレッスンには苦労した。まず学生寮の掲示板にポスターを貼って、生徒を募集した。何人か申し込んでくれた。でも華材がそろわない。木の枝は花屋では売ってないし、公園の木の枝はもちろん折ってはいけない。ウィーンの森へ行ってさがしてみたけれど、もちろんここでも枝を折るわけにはいかなかった。花屋の花も自活している貧乏学生には高すぎる。しかたがないから、花は、自分で持ってきてもらって(庭の花を摘んできたり、適当に工面して)いちおう、生け花の型を教えて活けてみた。だけど、なんか、日本の文化をこんな風に伝えていいのだろうか、と申し訳なかった。でもたくさんの花好きの人たちと知り合えて、とても楽しかった。家に招待してもらったこともあるし、別れてからもずっと、文通を続けている人もいる。

(生け花教室のポスター)

ここで働いている間に私の最初の計画は崩れ去った。仕事が終わったら旅をする。そしてお金がなくなったら、また仕事をさがす。そうやって、滞在を伸ばそうと決めた。4ヶ月で帰ってしまったら、何も見られないし、何も変われない、と思った。Tとのこともあった。それが一番大きかった。彼とのことがこれからどうなっていくのか、わからなかった。もっと時間が必要だった。このまま別れることはできない。彼は夏にケンブリッジで英語を勉強する予定だった。私も一ヶ月のケンブリッジ英語教師のためのプログラムに申し込んだ。

いきなり、帰りのチケットをキャンセルしてしまって、両親はさぞびっくりしただろうと思う。(今になってそれがわかる。)

ウィーンでの二ヶ月は高波のように私の心にどどっとかぶさってきて、心を沖へと連れて行った。

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